2020年05月15日

無駄についての無駄話

こんにちは。
今回ブログを担当致します、現在副将並びに、文学部4年の桑満隆生です。

皆様いかがお過ごしでしょうか。私は随分と時間ができたため、今までは忙しく、あまり見なかったテレビや新聞からニュースを仕入れています。
ニュースの中で、面白い話題がありました。「新たな日常」です。

私は様々な事を深く考えることが好きで、文学部での専攻は哲学科倫理学です。この「新たな日常」という言葉から、徒然なるままに考えていきたいと思います。長文になることが予想され、恐らく無駄な話となるでしょう。お時間がある方は最後まで読んでみて下さい。

「新たな日常」とはどんな日常のことなのでしょうか。いろいろな解釈があると思いますが、ここでキーワードになるのは「不要不急」なのではないでしょうか。
私は「新たな日常」、拡大解釈すると新しい世界や時代、では不要不急なものが淘汰され、少なくなったり無くなったりするのではないかと思います。これは実際に起こっていることです。不要不急であったもの、今は求められていない、つまり「無駄」がだんだんと消え始めています。しかし、これは仕方がないことです。多くの人に求められているものが生き残るのが自由経済で資本主義です。

無駄なものは本当に無駄なのでしょうか。無駄とは無意味であり無益であり、不必要であるのか。実際その通りだと思いますが、ここで明確に区別をつけなければならないのは、無駄は悪ではないという事です。この話については少し長引きそうなので止めます。

人間の発展において、無駄はとても重要になってくると思います。無駄なことができるのは豊かだから、無駄をするために豊かになろうとする。そう私は考えました。無駄が人間を発展させているのです。無駄は文字通りの無駄ではないのです。

これからの時代は無駄を少なくさせようとする動きが活発になるでしょう。ある程度余裕ができればまた、無駄が求められる時代になると思います。そして、無駄が求められる時代にしたいと願います。

「新たな日常」は無駄が少なくなる、貧しい日常になるかもしれません。しかし、私たちが求めるべきものはそれを超え、もう一度無駄が求められる「ポスト新たな日常」です。
恐らく、(現在は雲行きが怪しいですが)来年私は社会に出ます。大変な時代かもしれませんが、ポスト新たな日常を求め、頑張っていきたいと思います。

では、本当に無駄である無駄はなんでしょうか。私は答えを知っています。それは私の長すぎる昼寝だと思います。

以上、私の長い無駄話を終わりにしたいと思います。最後まで読んでいただき有難う御座いました。

次回は名門塾高ボクシング部からの刺客pt.1
「安部飛雄馬」
〜煮えたぎる熱い魂を拳に乗せて〜
です。
posted by 慶應ボクシング at 18:32| ブログ